宇宙にすべてをゆだねて生きてみた #9
『神との対話』との出会い
2022年3月
小さな奇跡が続いてはいるものの、厳しい出来事はさらに起き続けていました。
もうどうすることもできず、
神様に「次の一歩を指し示してください!」とお祈りするほかありません。
毎日毎日、お祈りとともに問いを投げかけていました。
ある日ツイッターを確認していると、通常のタイムラインとは別のタイムラインが現れました。
どこかをクリックしてしまったのかもしれませんが、後で探しても全く見つけられませんでした。
そのタイムライン上に『神との対話』のアカウントを見つけ、無意識になぜか読み始めていました。
ニール・ドナルド・ウォルシュ著
『神との対話』
以前持ってはいましたが、まったく興味が湧かずに手離した本です。
ところが、その時は「どうしても読んでみたい!」と思えたのです。
2018年に新装版が刊行されていて、本の帯には「雲黒斎」さんのコメントが載っていました。
「雲黒斎」さんの本『あの世に聞いた、この世の仕組み』は以前からお気に入りだったので、ますます興味を惹かれ注文しました。
地震で壊れたTVが導いた気づき
その本が届いた直後3/17に、宮城・福島地震があり、ここ仙台は予想以上に揺れ、家中のものが倒れました。
本棚、キッチンラック、そしてTV.・・・
TVは液晶が割れ、画面は真っ暗、音だけ聞こえる状態。。。
完全に壊れたのはTVだけで、それ以外のものは何とか修復できました。
「なんで・・TVくらい守らなかったんだろう・・」
「なんで耐震の対応をしてなかったんだろう・・」と悔やみました。
でも次の日、冷静さをとり戻してくると
「実は強制的に本を読む時間を創ってくれたんじゃないだろうか?」と思い始めました。
妻も同じように感じていたようです。
その日から「TVを見ていた時間」は「本を読む時間」になりました。
読み始めると、まさに『探し求めていた答えの数々』がそこにあったのです。
著者の境遇もかぶり、神様への問いかけの答えが次々に出てきました。
一気に読まなかったら、エゴによって現実に引き戻され、理解は半減していたかもしれません。
このタイミングで「TVが壊れた理由」が分かった気がしました。
昨年から『執着』はどんどん手放し、
『所有』という概念も薄らいできていたので、TVを手放すことは苦ではありませんでした。
「必要ならTVはまた私達の元へやってくるし、必要ないならそのままでも問題ない」と思いました。
本を読み終え、新たな祈りが思い浮かんできました。
神さま、あなたの愛で私は常に守られ、満たされています。
必要なものや足りないものは何もなく、すべてが満たされています。
目の前の幻想はその究極の真実を経験するための冒険であり、ゲームです。
私はその幻想の中で生きることはありません。
私はその真実を味わうために、幻想とともに生き、この経験を楽しみます。
困ったことは絶対に起こり得ないこと、失敗はあり得ないことを知っています。
私はその真実をたくさんの人が思い出せるよう伝えていきます。
あなたと私は共にあり、私たちはひとつ、すべてはひとつに繋がっています。
すべてはうまくいっています。すべては必ず完璧な結果へと導かれます。
今ここにある、いつもここにある愛に感謝します。
ありがとうこさいます。
この祈りは、今も毎日続けていて、私にとっての毎日の瞑想になっています。
映画『神との対話』
2022年4月
『神との対話』の映画があることに気がつきました。
Youtubeはこちらです▼▼
https://www.youtube.com/watch?v=i_sCWEefBkc
過去に、山川絋矢さんが「すばらしかったです」とコメントしていたので観てみると、とてもタイムリーで良い映画でした!!
今まで気づき、学んできたものが、とてもシンプルに整理されました。
と同時に、これまでの自分を振り返り、
「過去に起きたことへの不安という反応」
「未来の予測に対しての不安と期待という反応」で生きているのが多いことに愕然としました。
「石につまづいた」という過去の出来事に対して
「なぜつまづいたんだろう」「つまづいて笑われた」「腹立たしい」「悔しい」等々
その反応をずっと持ち続けてる。
未来の予測に対して
「石にまたつまづいたら・・」「また笑われたら・・」「また悔しい思いをしたら」
逆に「宝くじに当たったら」のような「こーなったらスゴイ」的な「期待」で反応し
それを持ち続けてる。
でも「今この瞬間」以外存在してないなら
「ないもの」=「幻想」に反応して生きてるってことになるわけです(^_^;)
1日、1週間、1か月、一生涯の中で、殆んど「幻想への反応」で生きてるってムダだし、バカバカしいと思いました。
そして今までは「今を生きよう」と意識してきた "つもり" だったと知り、
改めて自分の「今を生きてなさ」加減を認識させられました。
今この瞬間を生きる
今起きている出来事に反応するのは当然です。でもそれは「今の反応」を変えればいいわけです。
例えば、、
「お金がなくて○○が買えませんでした」
「○○を払えませんでした」という出来事に直面したとき
その出来事自体に「良い・悪い」はなく、ただそういう事実があるだけです。
その出来事に対して「良い・悪い」とか「情けない・悲しい」というような感情が出てくるのは、
勝手に人それぞれの価値基準によって判断され反応しているだけに過ぎません。
だから、起きた出来事の中で、誰かに嫌な言葉を投げつけられたとしても、
それは、その人の判断であり反応なだけです。
出来事自体は良いも悪いもなく「ニュートラル」なので、
「あーこの人はこう感じるんだな」でも「自分は関係ない」とか
「自分はこう思うな」と思えばいいだけです。
というわけで「今起きてる出来事」以外のことに反応したり判断したり、
更にはその感情を持ち続けるのを極力やめようと決心しました。
瞬間瞬間、反応してる自分に気づいたら
「それは今起きてること?」
「それとも幻想?」
「また無駄に生きたいの?」と問いかけることにしました。
そして、できる限り『今この瞬間に在る出来事』だけを感じて生きようと思ったのです。
そう生き始めると、、
「今日もまた朝が迎えられた」
「生きてる」「暮らせてる」
「ご飯が食べれる」「コーヒーが飲める」
「お湯が使える」「シャワーが浴びれる」等々
普段当たり前にあるものが『キラメク』ような感覚を覚えました。
「そのキラメキを感じて一瞬一瞬を生きられたらどんなに幸せだろう」
「そのキラメキを感じ続けられるように生きてみたい」と心の底から思えたのです。